スタッフ紹介

院長 藤嶋 琢也(ふじしま たくや)

知識・技術を鍛錬してより良い施術を盛岡市の皆さまに提供できるように努めております。

経歴

  • 東京写真専門学校 映画芸術家卒業
  • 北東北東洋医療専門学校 柔道整復科卒業
  • 自律心体療法 マスターアドバンスコース(上級コース)修了
出身地岩手県。
出生地は母の実家が近い二戸市ですが、生まれて間もなくそのときの居住地である盛岡市に移りました。
生年月日1965年9月4日
(名前も近いですが、俳優の故藤岡琢也さんと同じ誕生日です)
血液型O型
  
家族構成両親(恥ずかしながら未だ独身。お相手募集中です)
趣味

映画…
好きすぎて若い頃作る方を志したこともありましたが、早々に才能のなさを実感して断念。しかしその後も観るのは好きで、どうしても観たいものは劇場に足を運びます。好きな作品は『バック・トゥ・ザ・フューチャー』『スタンド・バイ・ミー』『ニューシネマパラダイス』他多数。基本気持ち悪い系以外は何でも観ます。

料理…
もともと食べることが好きで、それが高じて約15年間の一人暮らしの間に様々なものを作りました。最近は多忙のためなかなか作れないのが悩みの種です。得意なものは『麻婆豆腐』『おでん』『塩鮭の炊き込みご飯』『豚の角煮』。これらはほとんどの人に好評いただきました。

スキー…
子供の頃は冬の体育がスケートだったため全然できませんでした。たまたま社会人になってスキー場でひとシーズン働く機会があって、そこで覚えてはまり、そのシーズンでは仕事終わりのナイターでほぼ毎日滑っていました。数年前からノルディックのクロスカントリースキーにも手を出しましたが、なかなか上達しません。これも多忙のため最近は行けないのが悩みの種。

読書…
小さい頃からおもちゃよりは本を欲しがったらしく、子供の頃は読書感想文への抵抗感は全くなし。今は月ごとの読む量に多少の開きはありますが、移動などの時間があればほとんど本を読んでいます。好きな作家は村上春樹(自称ハルキストです)、百田尚樹、三浦綾子。

座右の銘一期一会
好きなスポーツほぼ全般。
競技に拘わらず世界的な大会(オリンピックやワールドカップなど)は見れたら必ず見ます。あえて言えば格闘技とか球技よりも、陸上競技・水泳・体操といった自己の限界に挑んでいる競技の方が好きです。
好きな食べ物納豆、ヨーグルト、ラーメン、パイナップル
嫌いな食べ物きゅうり、蕗、漬け物全般

資格証書

たくや整体院を開院したきっかけ

『たくや整体院』の前身、『たくや整骨院』を開院したのが44歳のときでした。

さらに遡ること柔道整復師の資格を取得したのが42歳、本気でこの仕事を考えたのが38歳のときでした。明らかに遅くの業界参入です。

なぜこういった年齢から開院に至ったのか…?

多くの先生方は治療家を目指すとき『過去に怪我をして治してもらったから』といった理由だと思います。ただ、私の場合は少し違います。

一言で言えば『流されるまま』。また、『これしか出来ないから』とも言えます。
少々長くなりますが、もしよろしければしばしお付き合い下さい。

1965年9月4日に藤嶋家に長男として誕生します。

幼少期は家の中で本を読むのを好むような子供でしたが、それでも高校卒業までに野球・卓球・ラグビー・器械体操といったスポーツを経験します。ただ…なんて脈絡のない運動経歴なんでしょう。
だから今でもひとつの競技を真摯にやり抜いた人は尊敬してしまいます。

高校の頃たまたま観た映画に刺激されて映画監督を目指し、卒業後映画製作の専門学校に入学しましたが、早々に自身の才能の無さという現実を突き付けられました。

それでも卒業まではこぎつけましたが、最後の卒業制作のときにグループ内で発生した数十万の予算の穴をひとりで背負うはめになってしまったのです。

その影響もあって就職活動は一切出来ず、やむを得ず当時やっていたアルバイトをそのまま継続しながらの返済生活に突入しました。

ただ時期は折りしもバブル景気に突入する頃。
贅沢さえしなければ借金を返していけるだけの収入はありましたから、さほど危機感は抱いていませんでした。それどころか『しばらくアルバイトで生計を立てて、30歳までに就職できればいいか』なんて安易に考えていました。

今思えばそんな奴に幸運の女神は微笑んでくれるはずもありません。
皮肉なことにかつて考えていた30歳を境に私の人生の暗黒時代が幕開けとなりました。

さほど特筆すべきスキルもなかった当時の私ですから、当然というか様々な仕事を転々とすることになります。この頃の私を一言で言えば『逃げ』です。

まだそのような認識もない時代でしたが上司のパワハラも経験しました。
同僚からいわれのない嫌がらせを受けた職場もありました。おそらく大抵の方は我慢して頑張ってその職場に踏みとどまるでしょう。ただ私の場合ひたすら逃げてしまったのです。

どう考えても誰が見ても(今の私が見てもです)社会人として失格です。

ただ、これは後になってわかった事ですが、このように逃げることによって私はうつ病などから自らを守ってきたように思います。何故かはわかりませんが、私は本能的にそのすべを身に着けていたのでしょう。

1つは仕事で股関節を痛めてしまい初めて整骨院を受診したことでした。

当時の私もその職場から逃げたくて仕方ありませんでしたから先生から『仕事が原因ですね。一度職場を離れた方が良いでしょう』と言われるのを期待していました。

そこまで言われなくてもこちらの心理面に何か声をかけてくれるのではないか…そんな淡い期待を抱いていましたが、当然ながらそんな言葉はありません。

後になってわかりましたが、一般的な整骨院にそういったことを求めるのが無理なことでした。ただ、今思うとこの時の経験が体とともに心まで診ていきたいという、現在の私の原点のように感じます。

もう1つは、逃げに逃げてきた私の体もついに悲鳴を上げた事でした。
職場でのストレスからか帯状疱疹を発症してしまったのです。
勤め始めて間もない職場でしたが、退職して回復に努めざるを得ませんでした。

ストレスから解放されたのが功を奏したのか帯状疱疹はほどなく治りましたが、その時点で私は進むべき道を全て失ってしまったのです。

何かできることはないかと探して出会ったのが整体スクール

ところがこれを境に私の人生は何かに導かれるような形で進んでいきました。もう過度なストレスのかかる職場では勤められない、何かひとりで出来る仕事はないか…
そう思っていた矢先にとある整体スクールを紹介され学び始めます。

修了後に柔道整復師の資格を取得すべく専門学校に入り直し、新たな技術を学びたいと思っていたときに学校内で行われていたセミナーを紹介されました。この講師の先生が後の私の師匠となる先生でした。

学生の頃から指導を受け、卒業後2年間の勤務を経て師匠から独立して開院することになりました。

また、開院して間もなくうつ病・自律神経失調症施術の第一人者であるもうひとりの師匠に巡り合います。かつて体と心の関連を感じ取っていた私が迷うことなく教えを乞うたのは言うまでもありません。

私は治療家になりたいと切に願ったわけではありません。
まさに『流されるまま』現在治療家の端くれとしてここにいます。しかしそれと同時に、私には今『これしか出来ないから』治療家の端くれとしてここにいるとも言えます。

時々『なぜこの仕事をしようと思ったの?』と聞かれてその都度自問自答します。
『なぜ私なのか? 私でなければならない理由は何なのか?』。

若い時に身勝手に生きてきた私ですが、年齢の積み重ねとともに様々なことに気付かされてきました。誰にも頼らずひとりで生きていけるさ…なんて息巻いていた頃もありましたが、そうではありませんでした。

人は誰かを頼り、誰かに頼られてこの社会が成り立っているのです。

そんな中で私に出来ることは『逃げ』てきた経験を還元していくことしか思いつきません。
頑張るのは大切なことですし、人生で頑張らなければならない時は必ずあります。
でも全て頑張る必要はないのです。

体と心を守るために、時には逃げても構わないんです。私は本能的にそれを実践してきました。今は私がそういった体と心に無理をさせている方々に対してやれることがあるはず…そう信じています。

最後までお読みいただきありがとうございます。
また、これまで様々なことを教えていただいた先生方や開院から現在にかけて支援してくださった方々には感謝の言葉もありません。